鼻づまり

鼻風邪を引いた時に、一番やっかいなのが、鼻づまりだと思う。
一日の疲れをとろうと横になっても眠れないので、疲れが取れないからだ。
鼻づまりになった時には、横を向いて寝ると、横を向いたときに上になる鼻が通るのでいいと言うので、大体は横を向いて寝るのだが、ひどい鼻づまりになると、横を向いても鼻がつまったままになっている。
そういう時は、玉ねぎを薄くスライスして玉ねぎのにおいを嗅ぐと、鼻が通ってくる。
次の朝は部屋中に玉ねぎの臭いが充満しているので、ちょっとウッとくるかもしれないが、喚起をすれば大丈夫だし、鼻づまりが治ればまた元の生活に戻れるので、我慢である。
また、最近よく使っているのが、ヴィックスベポラップだ。あれの臭いを嗅いでいても鼻の通りがよくなる。
玉ねぎの臭いよりはうんとマシなので、こっちの方がいいのかもしれないが、玉ねぎの方が経済的なのでどっちがいいんだろうといつも思う。

 

新聞記事を読んで、ドローン墜落作業員けが、初の人身事故とあるが?

こうなることは予測がついていた筈では・・・。ドローンが制限なく空を飛び回れば危なくて、おちおち、外出も出来ない。
おちおち(落ち落ち)とは、落ち着いて、とか安心して、の意味である。

道路は自動車と自転車、空はドローンとどちらも気を取られていると大事故に繋がる。
政府はドローンを含む産業用無人飛行機・ヘリコプターの市場導入により2000億円の経済効果を狙っている。

どうしても安全性が利便性のあとになってしまう。万人とって便利なものは万人にとって不便である、の意味を理解して欲しい。
利益目的で作ったり使用する人達に政府は何故か甘い。

大事故が起きてからでは遅いのだ、今現在のトラブル事例と具体的な対策と実施状況をすべて公表するべきである。

飛行禁止区域も完全に設けて、尚且つ誤って進入することが無いよう万全の対策を練るべきである。

その上で、国民に使用する事の安全性と意義を説明し理解を求めるべきである。

人を排除したくて殺す気持ち

あいつなんかいなくなればいいのに、と思う時がある。

つかの間だが相手を殺す自分を想像すると胸がすかっとする。

消えてしまえばいいのにと思う人間の一人や二人は誰しもいることだろう。

 

自分は昔、咄嗟にある身内のことが許せなくて殺したくて仕方がなくなった。

大丈夫だ、やれば出来る、やってしまおう、

殺したい、殺せない、いや、殺せるさ、出来るさ。

本当に体がぶるぶる震えていたので、

母親の使っていた100円剃刀の刃を使っていないノートの上で何度も引いた。

 

力を込めれば込めるほど刃は紙に食い込み、深く刺さった。

強く強く後ろに引くと白いページに幾本もの鋭い切れ込みが出来た。

ノートの裏の机に傷がついた。それを相手の頬に見立てた。

ズタズタになって血が流れるところを想像した。

そうする間にやっと、怒りが収まってきた。

その後、大変恐ろしいことをしたと思ったし、

実際に相手めがけて何もやらずに済んだからこれで良かったのだとホッとした。

 

両親が公務員で何不自由無く育った小学校低学年の女子でも

そのくらいに人を憎むことがある。

まして世の中に、あいつさえいなければという思いで

人を殺す人間がいるのは当然のことだろう。

 

とは言え小学校低学年でもその殺意をアブナイと感じて

他所に反らすことを考えるのだ。

その気になれば殺せる自分でありたいと強く望みつつも、

殺したくない自分の方が正しいと知っているのだ。

 

我慢出来なくて実際に殺してしまうやつってのは

よっぽど腹に据えかねることがあったのだろうなあ。

小学生が我慢出来ることを我慢できないのだから。

 

オタク モテない

食事の献立

家族がいると食事メニューを考えてる。自分ひとりのときは全く考えてなくて、面倒な時は食べないって事があった。
家族の力は凄い!!作りたくなくても絶対に作る。料理は得意ではないので、レパートリーは少ないけど、必ずつくる。
毎日自分が作ることをするなんて、自分自身にびっくりしてる。よくやってるって自分をほめてる。
今日もまた、考えてる。昨日は肉料理だったから、今日は魚料理。だけど、今日は魚気分ではないや。
私の気分に合わせて。そんな感じで基本は私が好きな食べ物での料理。苦手な食材は遠慮して、それに代用できる食材とチェンジ。
料理を作り手のいいところ。
だけど、たまには他の人の料理が食べたい。って時は、近所の友達家族とパーティー。ん!頻繁にやってるかな。
平均したら周一ペースだ。
家族みんなも楽しんでるから、良しとする。
とにかく苦手だから、色々と自分を誤魔化して、友達を巻き込んでる。
楽しまないと、長続きできない。無理はしない事。

映画のオチについて

映画La la landのオチがつまらなかった、という意見が周囲やネット上でよく見られたので考えてみた(ネタバレ)。主人公である二人は結局互いの夢を叶えて別々の人生をいくわけだが、それが「5years later」という表示の後、唐突に示される。そして、ある日偶然二人は再開する。ヒロインは別の男性と結婚し、二人連れでいる。二人はお互いを確認しあい、彼の弾くピアノの乗せて様々な「もしもあの時こうしていたら」という夢の世界を共有し、最後は微妙なほほ笑みを交し合って別れる。自分が思うに、これはオチというか、人生の中ではよくあるシーンを切り取ったものだ。それが良いのでもなく、悪いのでもない。ただ「そうなった」というだけ。オチのどんでん返しでストーリーに起伏を付ける手法は最近よく見られるが、la la landにはそういう意図は無い。オチでいろいろなものを回収しなければならない映画はラストにいくほど情報が詰め込まれている。それに慣れていると、la la landのような映画は「つまらない」ということになるだろう。ただストーリーをジェットコースターのような起伏で驚かせて最後にあっと言わせる、という手法はもういい加減廃れていけばいいと思う。最初から騙し絵のような謎に満ちた作風であればいいが、ヒューマンドラマと見せかけて実は違うなど、ミスリードの誘い方が強引というか雑というか下手な作品が多すぎて正直腹が立つ。

個人事業主、平成28年の確定申告に税務署へ行ってきた。

個人事業主になって4年目である。毎年この時期なると税務署へ行き確定申告をする。定年退職の1年前に40年務めた会社を依願退職した。
何故?定年退職まであと1年なのに辞めてしまったのか、と誰しも疑問に思い問いかけてくる。

重大な理由は何も無い、あと1年をこのまま待てなかっただけである。現役でばりばりの頃は仕事も面白かったが取締役になって毎日が退屈だった。
年商40億くらいの決して大きな会社では無いがまだまだ伸びる会社でもあった。ある程度組織も出来上がり自分の役目は?と思い始めた。

60歳の定年を迎えてから仕事の引継ぎを行っては遅いと思った。辞めたい話を社長した。死ぬまでここにいてくれ、と言われた。
それでも、60歳を過ぎれば死んだも同然、ときっぱり辞めてしまった。

そして、個人事業の会社を興し仕事を始めた。何とか飯が食える程度の売り上げと利益は確保出来ている。
税務署の人間とも知り合いになれた。サラリーマン時代には得られなかった異分野の人間関係と知識を身に着けることが出来た。

電子業界の営業代行と言う仕事をさせてもらっている。

税務署は好きでは無いが、年に1度そこに集う人間たちが面白い。

 

ゼロファクター 通販

DNAで親子鑑定をすることについて

DNAで親子鑑定、大沢たかおがやってからというもの、とても人気らしい。

おかげで知りたくない事実を知ってしまった、という例も少なくはないそうだ。

 

だが、晴れて親子関係が証明されたからといって、

それは果たして良い事例なのだろうか。

 

自分的には、我が子への疑いを打ち消せずに

科学に判断を委ねた時点で既にアウトな気がするのだが。

妊娠のタイミングからして明らかにおかしいと感じていて

ずっと言い出せなかった場合、それが証明されて親子関係でなかったから

我が子をもう愛さないというなら勝手にすればいい。

 

だが親子だと証明されれば愛するという論理にはだいぶ違和感を持つ。

自分のDNAを継いでいるからこそ愛する、というのは何に対する愛なのだろうか?

例えば今しがた自分が生み終えたばかりの赤ん坊を取り上げられ、

別の赤ん坊をあてがわれたら、多分

「いやいや、自分の赤ん坊を返してくれ!」と言うだろう。

 

しかしTVドラマのように10数年気付かずに育ててから

赤ん坊すり替えの事実が分かった時にはどうだろう。

だからと言って手元で育てた子供よりも実の子を愛するか? 

多分、正解と言うか、世の多くの人は、両方愛するだろう。

愛は減らない。増えるばかりだ。

 

やりようによっては子供同士は憎み合うかもしれないが。

それとも自分は女性だから分からないだけで、

生物学的には

DNAで親子鑑定をすることについて

DNAで親子鑑定、大沢たかおがやってからというもの、とても人気らしい。

おかげで知りたくない事実を知ってしまった、という例も少なくはないそうだ。

 

だが、晴れて親子関係が証明されたからといって、

それは果たして良い事例なのだろうか。

 

自分的には、我が子への疑いを打ち消せずに

科学に判断を委ねた時点で既にアウトな気がするのだが。

妊娠のタイミングからして明らかにおかしいと感じていて

ずっと言い出せなかった場合、それが証明されて親子関係でなかったから

我が子をもう愛さないというなら勝手にすればいい。

 

だが親子だと証明されれば愛するという論理にはだいぶ違和感を持つ。

自分のDNAを継いでいるからこそ愛する、というのは何に対する愛なのだろうか?

例えば今しがた自分が生み終えたばかりの赤ん坊を取り上げられ、

別の赤ん坊をあてがわれたら、多分

「いやいや、自分の赤ん坊を返してくれ!」と言うだろう。

 

しかしTVドラマのように10数年気付かずに育ててから

赤ん坊すり替えの事実が分かった時にはどうだろう。

だからと言って手元で育てた子供よりも実の子を愛するか? 

多分、正解と言うか、世の多くの人は、両方愛するだろう。

愛は減らない。増えるばかりだ。

 

やりようによっては子供同士は憎み合うかもしれないが。

それとも自分は女性だから分からないだけで、

生物学的には受精時でその役割を終える男性には

何か特別な恐怖心みたいなものがそれこそDNAに刷り込まれているのだろうか。

 

「気を付けろ、その子は本当に自分の子か!?」

もちろん堂々とした離婚の理由にはなるだろう。

妻への疑惑がはっきりした罪になって戻ってきたら思う存分なじって勝ち誇ればいい。

その男は弱さから父親であることを放棄するのだ。

誰も幸せにはならない。

夫婦で苦労して子育てをした数年間が泥にまみれてゴミ箱に入るだけだ。

ただ傷付いて途方にくれた子供が残るだけだ。

受精時でその役割を終える男性には

何か特別な恐怖心みたいなものがそれこそDNAに刷り込まれているのだろうか。

 

「気を付けろ、その子は本当に自分の子か!?」

もちろん堂々とした離婚の理由にはなるだろう。

妻への疑惑がはっきりした罪になって戻ってきたら思う存分なじって勝ち誇ればいい。

その男は弱さから父親であることを放棄するのだ。

誰も幸せにはならない。

夫婦で苦労して子育てをした数年間が泥にまみれてゴミ箱に入るだけだ。

ただ傷付いて途方にくれた子供が残るだけだ。